ガリレオの幽霊に取憑かれて



 本日ハ晴天ナリ。
 本日ハ晴天ナリ。
 
 世界ニ“ガリレオ”ノ幽霊ガ取憑キマシタ。


◆◇◆


 “あなたの明日をお返しします”

 

 そう一言だけ書かれたメモを添えて僕のもとに届けられたのは、おもちゃの小さなオペラグラスだった。
 白い真珠層の丸い筒がお洒落なそのオペラグラスは、お菓子の空き箱を紐で縛っただけの小包にして、僕の家の郵便ポストの蓋を大きく拉げてくれていた。
 酷い悪戯をするもんだと思いながら、僕はお菓子の甘い香りがうつったメモを鼻に近づけて、ついお腹いっぱい食べた気分になる。そして、そんな悪戯をしでかすであろう犯人を思い出していた。

 

『本日ハ晴天ナリ。本日ハ晴天ナリ』

 

 “あなたの明日をお返しします”
 夢見がちで空想的な言葉。
 今日という日にポストに詰め込まれたオペラグラス。
 きっと彼女――そう、メイだ。
 僕はオペラグラスを双眼鏡のように両手で持つと、すぐさま家を出る準備をした。といっても、持っていくのはこのオペラグラス一つでいい。

 

『本日ハ晴天ナリ。本日ハ晴天ナリ。
 花粉ガ飛ビ、黄砂ガ舞イ、空ハ埃ダラケ。
 トテモ素晴ラシイ天気デス』

 

 早々に準備を終えた僕の背後では、さっきからずっとテレビの天気予報が今日一日の天気を教えてくれていた。
 けれど、いつものお天気お姉さんはそこにはいない。代わりの天気予報士は、籠に捕らわれた九官鳥だ。
 今日は誰一人とこの九官鳥みたく籠の中に引きこもってはいないのだ。

 

『本日ハ晴天ナリ。世界ニ“ガリレオ”の幽霊ガ取憑キマシタ。
 外ノ空ハ素晴ラシク埃ダラケデス。
 太陽ノ光ハ、アチコチニ散ラバルデショウ』

 

 晴れの空が埃っぽい日には、ガリレオの幽霊が世界に取憑く。
 そして、彼の発明が未だ息づくオペラグラスでしか見えない世界が、レンズの向こう側に姿を現わすのです。

 

 さあ、皆さん。

 

 オペラグラスを持って外へ出かけましょう。


 ◆◇◆


 宇宙へ初めて望遠鏡を向けたのがガリレオだ。
 世界にはまだ、彼のその好奇心が息づいているせいか、晴れの空が埃っぽい日に外に出てオペラグラスをのぞき込むと、近い未来が見える。

 なぜ、どうしてオペラグラスなのか。それは、オペラグラスの構造はガリレオ式だから。彼の名前が残されているのは、オペラグラスくらいだから。
 見えるのが近い未来なのは、オペラグラスの倍率は望遠鏡に比べて低いから?
 僕は、オペラグラスを覗き込んだまま町を歩く。
 ガリレオの幽霊が世界に取憑いた今日は、みんなこぞって未来を見ようと、オペラグラスをのぞき込むため外に出ている。だから、今日の町は満員御礼だ。


「おおっと」
「あ。ごめんなさい」


 オペラグラスの狭い視界に騙されて、一人の老人とぶつかってしまった。
 慌てて僕が謝ると、老人は気さくに笑った。


「いいさ、いいさ。夢中にオペラグラスを覗き込んでいたんだろう? 誰だって今日は無我夢中さ。なにせ、ガリレオの幽霊が取憑いているんだからね」
「…………?」


 けれど僕は、不注意な僕を優しく許してくれた老人の手に握られたものを見て、不思議に首を傾げた。
 近い未来を見るため外に出た老人は、ガリレオ式のオペラグラスを持っていなく。皺だらけでごつごつとした両手にあったのは、コップと虫眼鏡だった。


「オペラグラスじゃないの?」
「これだって立派なガリレオ式さ」


 僕が尋ねると、老人は言いたいことはわかっているさと先回りして答えて、持った虫眼鏡とコップをまっすぐに空に向けて構えた。
 浅く凹んだガラスコップの厚い底を目にあてて、口の部分を空に向ける。そして、その前に虫眼鏡のレンズを重ねてピントを合わせるのだ。
 けれど僕は、空を覗き込もうとする老人の行動に、慌てて止めに入る。


「空をむやみに覗いたら危ないよ。太陽で目を痛めるから」
「大丈夫さ。いま、私に眩しい太陽など見えてはいないからね」
「なら、何が見えるの?」
「夜空だよ」


 老人は、手製のオペラグラスを夢中に覗き込んだまま、僕のほうなど見向きもせずに、見えた未来を教えてくれた。
 老人が今見ているのは青い晴天の空だ。それが近い未来に夜空に変わるなんて、なんて普遍的で当たり前のことなのだろう。
 そんなものを見て何が楽しいのか。疑問に思う僕を老人はまた先回りして言った。


「私が見ているのは空の未来じゃない。私の未来さ。どうやら私は、今夜また空を見上げるらしい」
「わかるの?」
「わかるさ」


 自分の未来だからね。と、老人はコップの底を覗き込んでニヤリと口元をほころばせる。


「私は今夜、再び空を眺める。だけど不思議だ、私はまるで宇宙の中にいるようだ。この地上から星を眺めているにしては、あまりに星が近い。近すぎる。そうだ、まるで夜空を飛んでいるようだ。私は今夜、空を飛ぶのかもしれない」
「夜空を……?」


 その話を聞いた僕は、途端に、老人の姿が青空の中へと消え入りそうなくらい小さく見えた。
 よく見れば、僕とぶつかった老人の体は針のように細かった。僕とぶつかったことを許してくれたあの笑顔がつやつやとして、明るいものだったから気づかなかった。
 そして老人は僕のほうに見向きもしないどころか、僕の存在など忘れてしまったかのように、黙ってコップの底から空を眺め続ける。
 それでも僕は、老人に気づかれないように、近い未来を見続ける彼の邪魔をしないよう、そっとその場から離れた。
 二、三歩だけ音を立てないよう後ろ向きに下がって、くるりと回れ右をし、それから走り出す。


 駆けた町のあちこちでは、多くの人たちがオペラグラスをのぞき込んでいる。
 道端にしゃがみ込んで、マンホールの蓋を開けて地面を覗き込んでいる子供。
 自分が建てた真新しい家を眺めている男の人。
 毎日手入れを欠かさない庭の花壇を眺めている女の人。
 僕はその景色をすべてオペラグラスから覗き込みながら駆けた。
 けれど、どれもこれも景色はみな現在ばかりで、オペラグラスは僕に近い未来を見せてくれなかった。

 

 

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