* * *



 そして、ラマーンの言ったことは現実のものになった。


* * *


 あの娘が逃げた。


 ほんの一時、目を離した隙をつかれた。
 馬車に縛りつけていたのに、荒れた雪の地面と、ほどけた縄しか残っていなかった。
 落ちていた縄を見ると、赤黒い染みがついていた。
 血だ。
 匂いですぐにわかった。
 血が滲む程の力で縄から抜け出したのか。
 そこまでして、あたしから逃げ出したかったのか。
 あのとき感じだ満たされない気持ちが、恐怖なほど蘇ったのはこのときだった。

            
 認めたくない。
 認めたくなんかない!

 あたしはすぐに洞窟へ戻った。
 退屈そうに座っていたラマーンが、あたしの形相を見て跳び跳ねた。
 けれどあたしはラマーンには目もくれないで、別の、縄で縛りつけていた生き物たちに歩み寄った。

 まず真っ白な羽根を散らせながらうるさく羽ばたく鳩に近づく。
 銃を構えて、脚を縛っていた縄を撃った。
 破裂音が鼓膜を叩いて縄が切れる。
 鳩は一目散に洞窟の出口目掛けて飛び差っていった。
 あたしは、ただ茫然と見ているしかなかった。

「……この!」

 続けて兎の縄を撃ち抜く。狐の縄を撃ち抜く。
 トナカイの縄を、弾丸が引きちぎって岩壁に埋まった。
 そして。
 全ての生き物は、みんな洞窟から出ていってしまった。
 千切れた縄の残骸と、銃口からゆらゆらとのぼる煙が酷く醜いものに見えた。

「アレーシャ……?」
「……っはは」

 違う、醜いのはあたしだ。
 それが理解できたから、あたしは笑った。
 たった一人だけ、まだ頑丈な鎖に繋がれたままのラマーンが残っている。
 どうしてそんな顔をしている?

「どうした、笑えばいいじゃないか。お前が言ってたことはこれだったんだろう? こういうことだったんだろう!」
「……あの娘が一人で逃げ出したんだね」

 ラマーンはまるでその宝石のような瞳で見て、全てを知ったように言った。
 煩わしい瞳だったが、あたしは狙いから外してラマーンの首輪の鎖を最後に撃った。
 鎖は飛び散ってラマーンに自由を与えた。

「どうだ? お前が正しかったと証明するチャンスだ。――お前も出ていってしまえ!」

 そう叫んだのはあたしなのに。
 ずっと取り上げていた宝箱と鍵を最後に投げつけて。
 堪らず先に外へ飛び出したのは。
 あたしの方だった。

 
* * *

 耳が痛い。
 雪が降る寒さのせいなのか。
 あんな洞窟で何度も銃を撃ちはなったせいなのか。
 それとも自分の叫び声を聞いてか。
 背中の古傷まで痛む思いだった。
 いつの間にか森の中にひとりで雪に降られていて、満たされない気持ちは広がっていく一方で、虚しさばかりが心を埋めていった。

 空を見た。
 雪が降り続けている。
 終わらない冬の、降りやまない雪。 
 命の雪。
 いまここで、止んでしまえばいいと思った。
 そう願った。

「アレーシャ」

 けれど願いは全く外れた方向であたしの現実に干渉してきた。

「ラマーン……なんで」

 振り返るとそこには、首の鎖をぶら下げたままのラマーンがいた。
 あたしを追いかけてきたのだろうか?
 そんな考えが浮かんだが、すぐに否定しようと自ら頭を振る。
 けれど、尋ねていた。

「どうして追いかけてきた。お前はもう自由だ、あたしから逃げ出せばいいじゃないか。お前もあたしをひとりにすればいいじゃないか」
「ああ――確かに俺は自由になった」

 震えるあたしの声に、ラマーンの声がまるであたしを落ち着かせるように重なった。

「だから俺は、アレーシャ、君を追ってきたんだ」

 あたしは困惑した。
 ラマーンは一歩、また一歩と歩み寄ってきた。

「アレーシャ、君はあの娘に大切なものは縄なんかで繋ぎ止めることはできないと教わった。なら今度は俺が、いまの君に教える番だ」

 鎖の切れたラマーンの足を止めるものは何もない。

「アレーシャ、縄なんかで縛らなくても、君の側には誰かがいてくれる。それが俺だ」

 手を伸ばせば触れ合える。
 その距離にいるラマーンは、あたしに教えるように手を差し出した。

 身体中から沸き起こる感情に、今度は胸がはち切れそうになった。
 ますます声が震えた。

「……後悔するぞ」

 あたしは、手を出すのを躊躇った。

「あたしはまた、お前を縛りつけてしまうかもしれない」
「いまの君なら大丈夫だ。ひとりで群れを抜け出してここまで来れたじゃないか」

 そう言われて初めて気がついた。
 あたしはひとりで森の外へと向かっていたのだった。
 ひとりだが、独りではない。
 その事実と一緒にラマーンはあたしに勇気を与えてくれた。

「もう一度いう。後悔するぞ」
「俺はしない」
「あたしがする」

 きょとん、とラマーンがアホ面を見せた。
 その表情が何だが無性にいとおしく感じた。

「このままのあたしじゃ、あたしが後悔する」

 だから聞け、ラマーン。
 これがあたしの最後の言葉だ。

「あたしはスノー・ファングだ。誇り高い雪狼だ。そのあたしを裏切るときがあれば、お前を噛み殺すだろう。恐れを感じるならいますぐ何処へでも行ってしまえ!!」

 吼えたあたしの声は木の幹に亀裂を与えるほど森中に響いて灰色の空へと突き抜けた。
 まるで恐れをなしたかのように、止まないはずの雪は突然と降り止んでいた。

「どうした? あたしの気が変わらないうちだぞ」

 最後までラマーンに確かめる。
 ラマーンが逃げ出したりしないのを見届けると、あたしは持っていた銃を太い三つ編みを二つ下げた自分の頭に向けた。

 そんな顔をするんじゃないよ。
 生きていくのに誰の顔色も確かめたことないんだ。
 いまさら誰かに止められるとも思っちゃいない。
 これからもあたしは、気のすむように生きていくんだ。

 そしてあたしは不適な笑みを浮かべて、
 ――引き金ートリガーーを引いた。



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